みらいのびたって誰?

50代の私が歩んできたキャリア(1991)

 私は修士の学生だった1990年10月に今の大手化学系会社に内定しました。当時はバブルがはじけて間がないころ。

日本経済もまだ強く、GDPでアメリカに次ぐ2位。中国を含め追従できる国はなく、日本との開きはかなりあった時代です。

私はそのような時代の追い風にものって難なく採用が決定。今では考えられないでしょうけれども1社(今の会社)だけ面接して無事採用、これで私の就活は終わりでした。

研究開発に従事した10年間(1991~2001)

 1991年4月に入社。辞令は研究開発部門。化学系出身の私はごく自然に受け入れました。

与えられた業務は、紙パルプの生産に必要な薬剤の開発。学生時代とは異なるテーマでした。しかし大学で勉強した経験を活かし、思う存分活躍したいと意気込んでいました。

当時、紙は文化のバロメーターと言われ、紙の消費量が多い国が文化的に成熟しているとされていましたね。毎年日本の紙・板紙の国内生産量は増加し、私が開発した薬剤の売り上げも右肩上がり。懐かしい思い出です。

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出典:日本製紙連合会

 1994年私の人生で最大の出来事が起こります。たまたま研究スタッフとして採用された女性と出会ったのです。

ポニーテールで後ろ髪を揺らしながら歩いている新規採用の女性。当時彼女なしの独り身だった私が気にしないではいられません。

何かと理由をつけてお手伝いをお願いしたり、話しかけたり。そうこうしている内に相手にも彼氏がいないとの情報が。思い切ってデートに誘ってドライブして、そして1年後、結婚することになりました。

突然の営業部門への異動(2001~2005)

 さて、2001年の夏。当時の研究所長から呼び出されました。なにごとかと指定された小さな会議室に行きました。そこで伝えられたのは、紙パルプ薬剤の営業部への異動。まさに晴天の霹靂。サラリーマンとはこういう運命。人生の一大イベントが知らぬ間にどこかで決められ告げられるのです。

時は、まさにインターネト革命の真っただ中。産業構造の変革が起こり、紙パルプ産業はそのあおりをまともに受けます。紙で読まれていた新聞・雑誌は、電子媒体に移行します。また、オフィスでも紙ベースで回覧されていた業務報告がすべてネット上で閲覧され、紙の資料がパソコンから直接プロジェクターに投影されることになります。自然、紙の印刷が少なくなり、紙の生産量は徐々に落ち込んでいきます。

 当時、私の会社でも紙の生産量の落ち込みに伴って紙薬剤の売り上げも落ち込み始めていました。そんな中、今から思うに、技術のわかる営業マンを投入することでテコ入れする狙いがあったのではと想像しています。

 

不安と期待の入り混じった営業活動

 理系出身の私が営業部門に配属され作り手から売り手に。確かに商材の知識はありますが、作ると売るとでは大違い。本当に自分にできるのか不安でたまりませんでした。しかし一つだけ、私にはできそうな気がする経験がありました。

それは、研究職時代も折に触れ営業の方に同行して顧客訪問の経験があったのです。私が訪問する時は、たいてい新しくできた商品の説明やクレームがあった時の原因の説明。

顧客と様々な対話を通じて信頼を勝ち取り、自社の商品を使ってもらう。よく考えてみれば、これこそ営業の重要な活動。一からすべて習得する必要もなさそうだな、という感覚はありました。

結構楽しかった営業活動

 2005年まで結局5年弱、営業活動に勤しんでいました。結構楽しかったです。営業にはつきものの接待。お仕事の延長ではありますが、会社の経費でおいしいものを食べられる。もちろんお昼はしっかり業務を果たしましたよ。

夜は顧客と楽しいひと時を過ごすことで人となりを理解し合い、より強固な関係を築く。お酒が入れば難しい仕事の話はほっちゃって、趣味や家族、会社の愚痴など人としていろいろな経験や勉強をさせてもらったのもこの時期です。

当時30代だった私が相手にするのは50才前後の部長や工場長。結構かわいがられていたような気がします。休日もゴルフ接待もありました。プライベートでもゴルフスクールに通い、恥ずかしくない程度の腕を上げました。

また、研究開発に逆戻り

 2005年のある日、楽しく毎日営業活動に勤しんでいた時、営業部長に呼ばれます。「研究開発に戻ってください」。「え?」。ガーン!楽しく頑張っていた営業部門でのお仕事もこの一言でおしまい。

また、知らないどこかで人の運命をもてあそんでいる人がいる~。「それなりに頑張ったのに、、、」と言ってもこれだけはサラリーマンの宿命。行けと言われたら従わなければその先の出世はあきらめなければいけません。

ということで、また研究開発に逆戻り。毎週国内のいろいろなところに出張していた生活が毎日研究する退屈な日々となります。

 さて、当時の市況ですが、紙パルプ生産量は、さらに減少の一途。iPhoneや情報端末の普及がますます逆風となって吹き荒れます。私の異動も原因はこれ。紙パ薬剤が全く成長が見込めない事業領域となり、会社として撤退を視野に人員の削減を進めていたのでした。

退屈な研究開発 第二章(2005~2010)

 2回目の研究開発は、毎日がとにかく苦痛。一度営業部で国内を飛び回り、予測不能な顧客を相手にしていた刺激的な業務から、コツコツ実験というのは気持ちがついていかない。

 研究開発のテーマは、木材を原料にしたバイオケミカルの開発。確かに私のキャリアは、紙パルプ産業用の薬剤の開発と販売。でもだからと言って木材からバイオケミカルなんてつかみどころが全く異なります。それに販売する商品もなし。

顧客訪問もなし。これではせっかく積み上げてきた営業部門の経験はまったく生かせないじゃないの~。ということで毎回毎回、上司との面談は、「営業に戻してくれ」でした。

 

希望通り営業に戻れたよ。でも。。(2010~2012)

 そうこうしているうちに木材原料からバイオケミカルも営業部門とコラボしながら市場調査と開発を同時進行させましょうということになりました。で、日頃から営業に戻せとうるさく言っている私に白羽の矢が。

今度は、自らの意志で異動先を勝ち取ったようなもの。晴れて営業部門に戻ることができました。

 だたし、戻った営業部門は顧客のいない営業開発。なんなの?って思われるでしょうが、要するに営業部門に籍を置き、新規顧客開拓を行うことを主なミッションとする部署に配属されたのです。

 う~ん、微妙。以前の既存顧客への販売ではなく、新たに開発されるであろうバイオ素材を買ってくれそうな顧客を探すのです。

 しかし、やはり営業は売る商材があってこそ。開発しながら顧客を見つけることは出来ませんでした。シンプルに開発中なので、値段が決まらない、生産できるかどうかも分からない、できた製品が顧客に提供できるメリットが説明できない。

 そして、木材原料からバイオケミカルを作るというコンセプトも結局は既存の同等品とのコストが勝負。バイオ原料からはコストが高く、割に合わないということで開発プロジェクトが解散してしまいました。

化学物質の法律を担当することに(2012~2022)

 プロジェクトがなくなったことで私の営業開発としてのお仕事も終わり。営業部内での配置異動で化学物質の法律関係の業務を担当することになりました。

 そもそも一般人にとって法律は、よほどのことがない限り、知る必要はありません。あえて言うなら交通免許を取得する時、道路交通法を少し勉強する程度ですよね。ところが私が配属されたのは化学物質を扱う業者が順守すべき法律を扱う部署。

よく考えてみたら化学系の企業が化学物質の法律のことを知らずに商売できるはずはないですよね。でもまさか私がそのような部署に配属されるとは夢にも思いませんでした。

 実は、この化学物質の取り扱いに関する法律は、日本にはたくさんあるのです。消防法、化審法(化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律)、化管法(化学物質排出把握管理促進法)、安衛法(労働安全衛生法)、毒劇法(毒物及び劇物取締法)などなど。

会社が販売する商材がこれらの法律に違反していないか、販売する顧客がしっかり法律を守れるように対策ができているか、などをチェックする部署です。

 なにぶん法律ですので、難しい。そして結構な頻度で改定される。そこで常に最新の情報を入手して自社の商材への影響度を確認する。これが主な私の業務でした。不慣れな私もいつまでもそういってられない。先輩に教えてもらいながら、何とかこなしていました。

 この業務を通じて習得したスキルは法律そのものの知識もあるのですが、調査能力。業界団体、セミナー、ネットなど駆使して情報を入手。対応すべきことがあればすぐに行動に移すのです。これって、ブログの運用に似ていませんか?

早期退職を決意(2022)

 そうこうしている内に56歳になりました。このまま現業を続けて定年も悪くない選択です。月収もそこそこ。ボーナスも出ます。大きな失敗も大きな挑戦もないでしょう。ただ毎日同じことの繰り返し。そして組織もだいぶ若返りました。

私は、高度専門職で特にメンバーをマネジメントする立場ではありません。今の上司は、私より年上ですが、一足先に定年退職します。後任はおそらく若い部長がマネジメントとして赴任するでしょう。何人かの先輩はシニア制度であと数年残る方もいらっしゃいますが、現役で言えば私が最年長。そろそろ潮時かな、という思いが強まりました。 

 ということで、会社人生に見切りをつけ、これからはブログで稼ぐことにチャレンジしていく決心をしました。厳しいことは承知の上。今まで30年間、サラリーマンとして組織の歯車として働いてきましたし、それが当たり前と思ってここまで来ました。

 時代は令和。私たちの年代が思っている以上に若い世代は将来に悲観的です。そして自分で稼ぐ力をつけています。であるなら、私も早めに自分の力で稼ぐ力をつけたい、いやつけるべきだ、と考えたのです。 

 私のこのチャレンジが成功するかどうかはわかりません。でも、失敗するにしても記録としてブログに残すことで何らかの価値を提供できるのではと考えています。成功しても失敗しても読者の方に有益情報を提供できるなら挑戦は早ければ早いほどよいですね。 

 ということで、このブログを始めました。どうなっていくのやら、私にもわかりませんが、とにかく一歩踏み出していこうと思っています。

 ここまで読んで頂いてありがとうございました。

みらいのびた